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2012年9月29日土曜日

五七日忌、栗の渋皮煮

台風が北上中とか・・・・・そんな心配をよそに真夏のような暑い九月の終わり。
本日納骨が終了。



この約一か月・・・・・母が逝去してからのこの一か月・・・・気持ちがローラーコースターのようにめまぐるしかった・・・・

何をしても、何を見ても母を連想するものは涙がすぐに出てくる。

そんな折、数日前、買い物に行ったら秋の味覚、栗がならんでいた。



栗と言えば母の作る渋皮煮が、おいしくて大好きで、毎年必ず作ってもらっていた。母の最期の渋皮煮は2010年のもの。
その時のものが野菜室にまだ保管してある。昨年煮直したけれど、いまだに食べられる。ブランデーを少し足しておいた。
味は少し落ちているけれど、マフィンなどに混ぜ込めば、まだおいしく食べられる。

そんなことを思い、栗を見て、渋皮煮を作ろうかと思い立った。昨年母が入院中、初めて作ってみた。出来上がりはあまり良くなかったけれども母はおいしいと食べてくれた。それまで母に頼りっきりだったから、自分で作ってみるとこれがなかなか大変な作業で、こんな思いをして作ってくれていたのかと思うとますます、ありがたい。時間と根気のいる作業、そしてなにより、きれいに作ってみたいという情熱がそのまま仕上がりに反映される。



作り始めはもちろん悲しくて、母を思いながら泣きながら作り始めた。

そんな思いまでして…と思う反面、母を偲び、泣きながら作ればいいと、母が生きていたら上手にできたねと、言われるような仕上がりにしようと、集中して作ることをした。

一つ一つ丁寧に、優しくいたわりながら大粒の栗を形を崩さず煮あげた。



納骨と清めの後、叔父、叔母が家に立ち寄りお茶を呼ばれていったので、その際、さっそく渋皮煮をふるまった。叔父の一人は母のそれが大好きだったので、母のものほど上手ではないかもしれないというと、一粒食べて、おいしい、おいしいと、絶賛してくれた。母のものと同じくらい、おいしいという。蛙の子は蛙・・・・かも?



綺麗においしく仕上がった栗を皆でいただき、母を偲び再度の供養ができた。小さな位牌に父と並んで鎮座した母。祭壇はすっかり取り片づけられて、和室は何もなくなってしまった。
それがまた悲しいのだが、一つ、一つ乗り越えるしか方法はない。

これから、違うさみしさや悲しさがやってくるに違いないけれど、その都度その時期のもので母から教わった味を一つずつ自分の手で作っていこうと思う。

感情を抑えず、自分に素直に、そして、また少しづつ”作る”という、喜びを思い出しながら。
 

2012年9月10日月曜日

介護の終わり

暑い、暑い、そして、辛い夏が終わりました。

生前遺言で、用意した母の手書きのはがきのセット。会葬者にお配りしました。
思えば長く、短いようなあっという間の約一年間。昨年の9月の火傷から始まって、そのころから母は本当に老いて、一人では生活ができなくなっていきました。
毎日、母の家に通い、火傷の消毒と手当てをして、水膨れの跡も数週間できれいになり、安心したのもつかの間で、10月には大腿骨頚部骨折。手術、リハビリ、と、その間に見つけられてしまった腫瘍の検査。結果は、悪性で、年内いっぱいで骨折、リハビリは一応終了。その病院から退院。今年の一月には腫瘍の切除で、大学病院へ再入院、そしてまた手術。その後は私たちと一緒に暮らしながら、リハビリも続け、歩くこともできるようになり、本人は切除したから後は、快方に向かうとばかり信じていた矢先。

四月の定期検査で転移が疑われ、五月、全身検査。そして、下された診察結果は、余命数か月。

六月の母の誕生日を家族で祝った後、母は緩和ケア病棟に入院。そしてその二か月後に帰らぬ人となりました。

母の愛用していた腕時計。これからは私の腕で時間を刻み続けます。
八月の初めから急激に病状が悪化。最後まで、気丈に自尊心を持ち、誇りを持って闘い続けた母でした。

孫の誕生日を最後に、意識もなくなってきて、目を開けている時間も短くなり、それでも最後まで私たちを見ては、ありがとう。と言い続け、静かに息を引き取りました。

覚悟はしていたつもりです。緩和ケアに入ってからは、週単位で変化する母を注意深く見守りながら、医師や看護師の援助をうけながら、その日が来ることを自分に言い聞かせていました。
お盆過ぎに日に日に悪くなってもなお、信じられず、また、元気になるような気がしていました。
けれども、元気になるどころか、医師の言うとおり、八月いっぱい持たないかもしれないという言葉通り、あっけなく、逝ってしまった母。悲しむ間もなく、葬儀、通夜、告別式などなど。暑いさなかの悲しみの時間は心身ともに、使い果たした感、で、葬儀の翌週は、何もできない自分が居ました。でも、その後の様々な、手続きをしなければならず、時間だけは無情に過ぎていきます。
三月に東京へ俳句の全国大会に行った折のスナップを遺影に選びました。
日々、気分が落ち込んだりふさぎ込んだり、もちろん涙の毎日です。

母の病気は稀な癌で、臨床も少ないようでしたので、奇跡が起きるのではと、ささやかな望みを持っていました。
でも、現実は残酷にも私たちに最後通告を突き付け、いまだ、その現実を受け入れることが、できず、したくない…私です。

ほとんど動けなくなってしまった母と、お盆過ぎは、私たちなりに強く絆を持って、過ごしました。最後の本当につらく悲しい時期でした。
意識不明になる前の夜、母は私をベッドに伏したまま抱きしめて、離さず、いつまでも背中と頭をなでながら、父がいないつらい生活ではあったけれど、私がいたから頑張れた。いつも、私のことが頭にあった。私を忘れた日は一日もない・・・・と、言ってくれました。泣きじゃくる私に、泣かないで・・・・と、言いました。

「これは別れじゃあないからね、さよならは言わないよ」、と、言うと、うんうん。とうなづいて、「私もいつか、ママのところへ行くからね。それまで待っててね。そして、また私のママになってね。娘にしてね」。と言うと、また、うんうん。とうなづきました。あまりにつらそうな母の痛みや苦しみを変わってあげられない辛さを、否応なしに、思い知らされ、「ごめんね。何もしてあげられなくて」と、言うと、「今までいっぱいしてくれたよ、ありがとう」と、言ってくれました。

84年のろうそくが、静かに最後まで燃え尽きて、25日、昼過ぎに炎が消えました。
最後の二か月は私の人生の中でも最もつらく悲しい二か月でした。

一年間の疲れと暑い夏の疲れもかさなり、そして今、第二ステージ、大切な人を亡くした後にやってくる、喪失の悲しみ。今まさにその真っ只中です。

何とか自分を取り戻そう、何か好きなこと、物を作ろう。と思うのですが、キッチンに立つことさえができません。

それでも、やっと、一昨日、リンゴのアーモンドクリームケーキを焼くことができました。昨日葬儀に来られなかった弔問客が見えることになったからでした。
理由はどうであれ、ケーキを焼きながら、少し前の自分の気持ちを、取り戻せた気がしました。
祭壇の林檎を使いご供養にして皆でいただきました。
本当に長いようで短かった一年でした。母のために力を出し切れた気がしています。突っ走った一年間。
イライラ、やストレスももちろんたくさん、ありました。でも、後悔したくなかったから、緩和ケア病棟へ行ってからは、自分なりに尽くしました。
それができたことも今は感謝できる自分がいます。

親を看取る。その、悲しく、苦しく、つらい経験を終えた今。これからの悲しみはまた違う悲しみと、聞きます。でも、生きていかないといけません。
大切な肉親を失う悲しみを、誰もがいつか経験します。時間の治癒力を今は慰めに、そして、母と過ごした素晴らしい思い出の数々を忘れずに、声や、笑顔をいつまでも心にとどめ、これからの人生を歩き続けます。
いつかまた、私の大きな誇りの母に会えることを信じて。