お気に入りのお香を焚くひととき。雨の日が続き家の中がほんのりかび臭くなるこの季節。伽羅、沈香が、信じられないくらい部屋を清めてくれます。 |
私も一人っ子であって、浅はかにも他家へ嫁いでしまった後、父の墓を母一人が守っていたけれども、母も亡くなった今は、私が守らなければいけない。母は、そんな世話をかけたくないと常々話していたけれど、心のよりどころとなる墓があることは、ありがたく、無理をしても建立した甲斐があったと、今は思う。
小さな仏壇に、飾りきれないくらい花を盛って。 |
からだを動かすのもずいぶんと楽になってきてありがたい。
ふと、思い立ってお茶の点前を思いだしながら、ひと時を過ごす。
思えば厳しい師にしっかり叩き込まれた立ち居振る舞い。茶道は点前を極めるだけではない。すべてが学習で、高校生になりたての私を、母が町で一番厳しいと評判だった茶道の師の元へ送り込んだのだ。
先生の一言一句を見落とさず、根性まで習ってきなさい。と、言われた言葉を今でも忘れない。師匠は決してやさしくはなかったけれど、いつもお茶に対する愛着と、愛情をこれでもかというくらい弟子たちに教えてくれた。
今の若い人には到底、我慢できないくらいの厳しさではあったけれど、その時お稽古を受けさせていただくという、師匠への尊敬は、至極当然の時代だった。
いつのころからすっかり学ぶという姿勢が、御座なりになり、さっさとカリキュラムをこなし、許状をもらえばすっかり先生気取りで、生徒を取り金儲けをするのが主流になってしまった悲しい日本の文化。
略盆点前は、茶道を始めるとまず教えてもらう初めてのお点前。私の弟子時代は最初の三か月はこの略盆点前でさえ、させてもらえなかった。今の人には無理な話だろうな・・・ |
一つづつ、茶道の動きは理にかなった動きで日常生活にも大変役に立つのです。 |
先生は、今は都度会費としていただきながら教えていますのよ。と、こぼされた。
日本全体がおかしくなっているのは、こんなことも一因であると、感じるのは私だけか。お月謝は欠席、出席関係なく月に師匠に収めるもの。出席するのは当たり前で、お稽古をつけてもらうというのはそういうことだ。
先生はお弟子さんがいつ来てもよいように、火を起こし、炭をついで茶釜のお湯がいつでも使えるように準備して待っていてくださるのだ。
お茶をふるいにかけ、棗に装い、朝から季節の茶花を用意し水揚げを気にし、高価な掛軸を清めた床の間に掛け、お香を焚き、万全の茶室にして弟子を待っているのだ。
独り稽古でも、お茶をふるって棗に入れて、茶碗に抹茶を整えます。 |
風炉や、釜もだんだんに用意して、きちんとした茶室に近づけたい。 |
仏壇に供えてあった水まんじゅうをご相伴いたしました。 |
こちらのお香は、今回初めて焚かせていただきます。たのしみです。 |
簡単、便利、早くていつでも好きな時に好きなことができるデジタル化した社会には、時間を忘れ、ゆったりと様々な色やにおい、感性が漂う空間への対価などはナンセンスと思われているようだ。
物理的、経済的な余裕も確かにないかもしれない。それでも、一週間に一度くらい自分を優雅な気持ちにさせる、いや、決して優雅などではなかった昔の普通の暮らしの感覚を取り戻したら人間はもう少し、優しくなれるかもしれない・・・などと、思った夏の終わりの独り稽古のひとときだった。
お茶の、稽古に終着はない。衣食住、季節の移ろい、芸術から音楽絵画、そして、文学に天文学。お客様をもてなす心と自己研鑽、啓蒙、啓発。すべてが自分への修業で、学びなのだ。簡単ではない、けれどあのころ一生懸命稽古をした時代が最近とみに、懐かしい。