切除後、退院した後は、私の家で骨折のリハビリも進んできて、歩くこともなかなか上手になってきていたし、食欲もずいぶんあって、小さかった体もプラス2kgの増加で、皆に元気そうになってよかったね・・・って、言われていたのに。
一本杖で歩く母の姿が日に日に元気になって、夜中にお手洗いに起きた母の杖の音も、日増しにに力強く、規則正しい音で寝室から洗面所へ行く音を夢心地で聞きながら、母が寝室に戻り、静かになる間も長くはなく、目が覚めてもまたすぐに夢うつつへ戻れていたのに。
夏には家に戻って一人で泊まってみたい・・・と、言っていたのに・・・・四月の終わりころから急に、痛みが母を襲い始めた。
まさか、こんなにひどくなっていたとはいまだに信じられない。
18日にPET検査を受けた。これはブドウ糖の注射をした後、しばらく休息をして画像撮影をするという最先端の医療技術らしい。癌を見つけるための検査である。でも、母には骨粗しょう症だから骨の検査をするのよと言って、母もそれを信じていた。
22日に主治医から検査の結果説明があった。
結果は転移がかなりあるということ、画像で見る赤く染まっている個所はまさに母が毎日痛みを訴えている場所であった。
肩、背中、胸に腰、足にもあるという。
一月の手術のときすでに悪性腫瘍と、言われたときに母は、今後もし再発したとしても放射能治療も化学治療も受けない。と、断言していた。その旨を医師にMRI検査の時に話した。そうなれば緩和治療しかないと言われて、その治療を始めるようにと、ホスピスへの紹介状を渡された。
母を待合において、医師に聞いた。あとどれくらいですかと・・・医師は数か月です。
と、あっさり言う。
何度も言うように、覚悟はしていた。こういう日が来るかもしれないと、でも、やはり受け入れられない。なぜ?どうして?悪性腫瘍はきれいにとってくれたでしょ?なのに再発??うそでしょ?・・・・って、
気持ちを整理するのに時間がかかった。
母にどう、説明したらいいのか。病院が変わることの意味を頭のいい母がわからないはずはない。
夜、娘や友人、親戚と相談して、あと数か月とか、癌とかいう言葉は禁句。痛みの少ない治療をするためよ…という説明にすることに。
面と向かって母と病気について話はしていない。でも、話の端々に、覚悟をしている様子が見られる。あえて、そのことには触れず、できるだけ悲しい顔をせず、普段通りに振舞う。
娘が母のためにと庭から木香薔薇を取ってきて一輪挿しに挿しました。初めてにしては上出来です。 |
病院が嫌ならここにいればいい。私はもう、覚悟ができている、母が、ここにいたいなら最後まで面倒を見ようと。
私たちにできることは何でもするつもり。今はそれしか考えられない。
おばのひとりがイチゴをたくさん持ってきてくれた。母のことを心配してくれている。ありがたい。
イチゴを一度にたくさん頂けない母のためにジャムにする。
悲しい事実を受け入れながら自分を慰めるためにもやはりキッチンにこもるのが一番いい。一日でも長く、母に生きていてほしいからそのためにできることをしようと決めた。
畑のきぬさやが、食べごろを迎えました。母の大好物です。卵とじ、お味噌汁。取れたてのきぬさやの香りは、母の病気が治ってしまいそうなくらいいい匂いです。
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