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2013年4月18日木曜日

茶の湯

今からかれこれ35年以上も前、高校生になったばかりの私は、母親に茶道の先生のところへ、入門させられた。

茶の湯・・・当時はお茶やお花は若い女性の嫁入り前の花嫁修業の一つみたいな存在で、お稽古ができることは幸せでそんな豊かな時代だった。何の疑問も持たず、ウーマンリブも、男女均等雇用法も誰もそんなことを騒ぐ時代ではなかった。

高校卒業後は半分が就職。それも結婚するまでの腰掛程度。
それらについては、今ここで議論するつもりはないし、当時私たちはそれで幸せだった。

お茶のお師匠さんはとても厳しくて、今の時代だったらとても誰もついていかないだろう。というくらい、昔ながらの稽古の仕方であった。寒い冬でも暖房などなく水屋では水しか使えない。脚の先の感覚が無くなるくらい正座で過ごし、ごみ一つ落とさず帰らなければならない。靴下を忘れようものなら、そのまま帰される。先生のお宅に上がるのにきれいな足袋、靴下に履き替えるのは当たり前なのだ。でも、誰も文句など言わず、必ず支度を整えてお稽古をしていただく・・・という、謙虚な態度で挑むのだ。そして、他人の家に伺うときは靴下を準備するという、慎ましさを、学ぶ。

当時の高校生…とはいってもアイドルとか、おしゃれとか、関心のない子などいない。さすがにボーイフレンドと出かけるなどということはなかったけれど友人は皆その当時の高校生らしく青春を謳歌していた。私はお茶のお稽古が楽しみで仕方のない、アイドルもおしゃれも全く眼中にない高校生だった。後で友人に変わっていたわねぇ…と言われて、やっと気付いた。あら、そうたっだのね。って。

でも、人と違うのはいいこと。海外ではユニークと言う。これは西洋では最大の賛辞の言葉なのだ!

変わっていたかもしれないけれど、私は今ものすごく感謝をしている。何から何まで。お作法、お行儀、礼儀。それらのことをナンセンスと今の人は言うだろう。でも、50年以上生きてきて思うことは、今の時代モンスター老人とか、モンスターペアレンツとか悪い意味で見られてしまう原因の一つには ”礼” を知らないし、教えることができないからではないだろうか。と。

礼儀もそうだけれども、お茶にかかわると、立ち居振る舞い、言葉使い、食事の作法から、道具の扱いなど、様々な日常生活の中でどんなにか役に立つかわからない所作を学べる。亭主の心得、客の心得。おもてなしの気持ち。それらを習得していく毎に、世の中にはまだまだ知らないことが山ほど、海の深さほどもあることを感じる。本を読むことを怠らず好奇心を忘れず、花の名前や、お菓子の名前、季節の情緒や、取り合わせ、書き出せばきりがないくらい、極めるにためには何度も人間をやり直さねばならないくらいだ。生まれ変われば前世のことは忘れているから、結局一からやり直しなのだけれど・・・・・

昔から脈々と続き、時代を超えて一部の人たちではあるけれど、こうして日本の文化を続け、関われることは素晴らしいし、私も一つの人生の伴侶として付き合いたい。

結婚後も出産後も、私は師匠のところへ通った。お花も同じ師匠に付き、教授の看板をいただいた。今は花もお茶も研究会や、特別講義にはできるだけは出かける。華展もしかり。でも、とてもいい加減な幽霊会員の一人なので、御家元に申し訳が立たないことしかり。お稽古は何年も中断していても、いつでも再開できる。家庭の事情や、家族のこと、自己都合などなどで長い一生の間には、離れざるを得ない時期もある。でも、時期が来ればまた、始められる。まさに今がそうなのだ。

先日、高校生の時から、当時同じ師匠に稽古をしてもらっていた知人、(今はお弟子をとり彼女が師匠になっている)のところへ、二週続けて、お邪魔した。

炉の茶室。三月の終わりの炉の名残を楽しむ最後のしつらい。


貝母、椿。茶花は簡単そうだが難しいのだ。

数十年ぶりに、茶室へ身を置き、改めて自分はこの空間が大好きなのだと再認識した。
翌週のしつらえ。まだ炉には早いが研究会への準備のため。
亭主の席に座りお茶を点ててみた。座ったとたんに自分の中の気持ちがまさにあのころに戻り、お茶へのスイッチが入り、そして何十年もブランクがあっても自然と体が動いたのには自分も、また、誘ってくれた知人もびっくり。
彼女曰く、先生は厳しかったから。しっかり身についたわね。若いときに身についたことは宝物ね・・・・

そうなのだ。この言葉を聞いて、母が女手一つで働き、お金をかけて私を稽古に通わせてくれたことへの感謝がまた湧き出る。こういうことは一朝一夕にはできない。お金を使うとはこういうことなのよと、母がよく言っていたけれども、その通りと思う。

何のためになるの?と、若い方から言われそうだ。そうね・・・何のためにもならないかもしれないけれど、自分のために、なる。ということ。
それで生きていけるわけではないでしょ?とも、言われそうだ。確かにそうだ。でも、お金では買うことのできないもの、、、、自分がほんの少し色々な経験や、学びを知ることができる投資だ。

無論、自分はまだまだ未熟だし、その道には程遠い。終わりのない修行で、修業なのだ。でも、そこに身を置くことで、精神的豊かさを感じ、心も豊かになれるなら、拝金主義を考え直せるまたとない機会かもしれないしでも、人それぞれであり、考え方は千差万別。だから、他人に影響を与えようとか、そんな気はまったくない。
私は私の人生を、自分を幸せにする方法を探して歩いていければ良い。

本日の和菓子。夜桜。こういう些細なこと、和菓子の名前と見た目との調和、感性歯こうしたことでもみがかれるのだ。
老後の一つの趣味として、これから機会があるごとに、もっともっと、かかわっていこうと痛感。何より、海外でこの素晴らしい日本文化をほんの少しであっても紹介できることがあれば、それもなによりだ。
以来、すっかり茶の湯ずいて、家でも茶の湯。
現に、イギリスの友人はもう待っている。次回私が、デモンストレーションをすることを。

背筋が伸びて、心地いい緊張感を感じることは心身ともに元気でいられることの一つだ。

知人曰く・・・今の若い方は、何をして自由時間を過ごしているのかしらね…と、ぽつり

まったくです。

そういう時代なのだ。しかたがない。

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